《みちる》 相槌
Hi! 『相槌』の話をしましょう。
会話をするとき、私たちはよく相手の話にうなずいたり、
短い言葉をはさんだりしますね。
それが「『相槌』をうつ」ということです。
普通の日本語の会話では、
聞いている人は「ええ」「ハイ」「ウン」などの『相槌』をうちますね。
それを聞いて、話している人は(自分の話を聞いていてもらえている)とか、
(そこまでは理解しているから先へ進んでよい)とか思います。
もし、聞いている人が『相槌』をうたなかった場合、
または「ハ?」とか「エ?」とか、上がり調子で言った場合、
話している日本人は(よくわかっていないのだ)と判断して、
頼まれなくても繰り返して言います。
上の説明は、実際に「日本語を学ぶ外国人」用の本に
日本人の会話の『相槌』の説明として、書いてあることです。
たしかに、そのとおりですよね。どう思いますか?
つまり、英語には『相槌』というピッタリした単語がないので、
こうやって学んでいるわけです。
そういえば以前、私の日本語クラスで、
私が説明を区切るたびに、若いアメリカ人の生徒が授業中に大きな声で、
「ナルホド、ナルホド」と連発していたことがありました。
一つ一つの文節で「ハイ」と「ソウデスカ」を繰り返し『相槌》を
入れていた韓国人の生徒もいました。
オーストラリアからホームステイのために来日した高校生達も、
私が説明を区切るとすぐに「I've got it!」「わかりました!」と
声を揃えて言いました。
きっと『相槌』のことを習って、一生懸命使っていたのかもしれません。
微笑ましく思いましたが…、
ただ『短い言葉を挟めばよい』というわけではありませんよね。
言葉でなくて「うなずき」だけでも充分、動作や顔つきだけでもいいでしょう?
「歌舞伎」でも timelyな「掛け声」がありますが、
デタラメに大声を出しているわけではありません。
どこで、何と言うかが、きちんと決まっているのです。
「昨日 電車に 乗ったら 中学の時の 友達に 会って 懐かしかった…」
と話すとき、
「昨日(ハイ!)電車に(ソウデスカ!)乗ったら(ナルホド!)、中学の時の(ハイ!)友達に(ソウデスカ!)会って(ナルホド!)懐かしかった(ハイ!)」
…なんて感じでいちいち『相槌』をうたれたら、滑稽でしょう?
反対に話をしているとき、まわりにいる人が…シーンとして、
ずっと無言で、リアクションもなく、沈黙が続いていたら、
私たちはどんな気持ちがしますか?
まるで写真か人形に話しかけているような気分ですね。
じつは、私も初めてアメリカに行った時、
一ヶ月ぐらいは落ち着きませんでした。
話をすると、私の話が終わるまで、
皆、じーっと私の顔をまっすぐ見て聞いていたからです。
誰も一言も、途中で口を挿みません。
しーんとしたなかで、話しているのは自分だけ。

そうなると、(あれ、私の言葉が通じないのかな?)と
途中で確認したくなったものです。
聞き手と向かい合っているときは、まだ(聞いてくれている)と
安心できるのですが、電話など顔が見えずに話しているときは、
「受話器を置いてどこかへ行ったのかな?」とさえ感じました。
でも、なかには“Oh, did you?”(そうだったの?)とか
“Aha!”(へぇ!)と、まるで小さな子供と話すときのように、
必ず短い言葉を挟んでくれた老婦人がいて、とても温かく感じたものです。
日本人は『相槌』のない会話に、慣れていないのですね。
特に私たちは会話中に、短い同情や感想を表す言葉…
「そう、よかったね!」「大変だったね!」「すごい!」等を入れてもらうと、
心地よく感じて、話しやすくなります。
『相槌』は、日本人にとって会話の習慣的な対応表現なのです。
外国人の場合は『相槌』をあまりしないかわりに
『eye contact』(相手と視線を合わせること)をして話をします。
これは、日本人にはあまり慣れていない習慣かもしれませんね。
小さな習慣の違いは、非常にたくさんあります。
気がつかないうちに、いつのまにか慣れているときも多くあります。
「そういうものなんだ」と違いを簡単に認められるときもあります。
「これは、日本風でないと…」と躊躇してしまうときもあります。
でも、すべてマネをしなくてもいいから、違いを認め合うこと、
そして、そこから前進することが国際感覚を身に付ける第一歩なのでしょう。
Variety is the spice of life.
…(諺) 変化は人生に趣きを添えるもの。
会話をするとき、私たちはよく相手の話にうなずいたり、
短い言葉をはさんだりしますね。
それが「『相槌』をうつ」ということです。
普通の日本語の会話では、
聞いている人は「ええ」「ハイ」「ウン」などの『相槌』をうちますね。
それを聞いて、話している人は(自分の話を聞いていてもらえている)とか、
(そこまでは理解しているから先へ進んでよい)とか思います。
もし、聞いている人が『相槌』をうたなかった場合、
または「ハ?」とか「エ?」とか、上がり調子で言った場合、
話している日本人は(よくわかっていないのだ)と判断して、
頼まれなくても繰り返して言います。
上の説明は、実際に「日本語を学ぶ外国人」用の本に
日本人の会話の『相槌』の説明として、書いてあることです。
たしかに、そのとおりですよね。どう思いますか?
つまり、英語には『相槌』というピッタリした単語がないので、
こうやって学んでいるわけです。
そういえば以前、私の日本語クラスで、
私が説明を区切るたびに、若いアメリカ人の生徒が授業中に大きな声で、
「ナルホド、ナルホド」と連発していたことがありました。
一つ一つの文節で「ハイ」と「ソウデスカ」を繰り返し『相槌》を
入れていた韓国人の生徒もいました。
オーストラリアからホームステイのために来日した高校生達も、
私が説明を区切るとすぐに「I've got it!」「わかりました!」と
声を揃えて言いました。
きっと『相槌』のことを習って、一生懸命使っていたのかもしれません。
微笑ましく思いましたが…、
ただ『短い言葉を挟めばよい』というわけではありませんよね。
言葉でなくて「うなずき」だけでも充分、動作や顔つきだけでもいいでしょう?
「歌舞伎」でも timelyな「掛け声」がありますが、
デタラメに大声を出しているわけではありません。
どこで、何と言うかが、きちんと決まっているのです。
「昨日 電車に 乗ったら 中学の時の 友達に 会って 懐かしかった…」
と話すとき、
「昨日(ハイ!)電車に(ソウデスカ!)乗ったら(ナルホド!)、中学の時の(ハイ!)友達に(ソウデスカ!)会って(ナルホド!)懐かしかった(ハイ!)」
…なんて感じでいちいち『相槌』をうたれたら、滑稽でしょう?
反対に話をしているとき、まわりにいる人が…シーンとして、
ずっと無言で、リアクションもなく、沈黙が続いていたら、
私たちはどんな気持ちがしますか?
まるで写真か人形に話しかけているような気分ですね。
じつは、私も初めてアメリカに行った時、
一ヶ月ぐらいは落ち着きませんでした。
話をすると、私の話が終わるまで、
皆、じーっと私の顔をまっすぐ見て聞いていたからです。
誰も一言も、途中で口を挿みません。
しーんとしたなかで、話しているのは自分だけ。
そうなると、(あれ、私の言葉が通じないのかな?)と
途中で確認したくなったものです。
聞き手と向かい合っているときは、まだ(聞いてくれている)と
安心できるのですが、電話など顔が見えずに話しているときは、
「受話器を置いてどこかへ行ったのかな?」とさえ感じました。
でも、なかには“Oh, did you?”(そうだったの?)とか
“Aha!”(へぇ!)と、まるで小さな子供と話すときのように、
必ず短い言葉を挟んでくれた老婦人がいて、とても温かく感じたものです。
日本人は『相槌』のない会話に、慣れていないのですね。
特に私たちは会話中に、短い同情や感想を表す言葉…
「そう、よかったね!」「大変だったね!」「すごい!」等を入れてもらうと、
心地よく感じて、話しやすくなります。
『相槌』は、日本人にとって会話の習慣的な対応表現なのです。
外国人の場合は『相槌』をあまりしないかわりに
『eye contact』(相手と視線を合わせること)をして話をします。
これは、日本人にはあまり慣れていない習慣かもしれませんね。
小さな習慣の違いは、非常にたくさんあります。
気がつかないうちに、いつのまにか慣れているときも多くあります。
「そういうものなんだ」と違いを簡単に認められるときもあります。
「これは、日本風でないと…」と躊躇してしまうときもあります。
でも、すべてマネをしなくてもいいから、違いを認め合うこと、
そして、そこから前進することが国際感覚を身に付ける第一歩なのでしょう。
Variety is the spice of life.
…(諺) 変化は人生に趣きを添えるもの。
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