《みちる》 舞踏家 大野一雄先生
Hi! 『舞踏家 大野一雄先生』のお話をさせてください。
生涯現役で踊り続けた世界的な舞踏家として知られる大野一雄先生の
訃報を知ったのは、6月2日の朝刊を広げたときでした。
103歳のご高齢で亡くなった大野先生のご冥福を心からお祈りいたします。
北海道のご出身で1906年生まれのようですが、
先生は横浜から世界に今までにないモダンダンスを発信して、
多くの人々に感銘を与えた方だと信じています。
横浜でご活躍されたのは1930年代頃からでしょうか?
横浜のS女学校の教師になり、体育でダンスを教えることがきっかけで
舞踏の道へ入ることになったそうです。
召集を受け、華北・ニューギニアに従軍、終戦後の1年間捕虜になり、
死と生をみつめる境遇を体験されたからでしょうか、
先生の舞踏は、美しく見せるヨーロッパのバレーとは全く違い、
本質的な心の叫びを表しています。
怖いくらい、力強い舞踏でした。
世界各地で公演をしたり発表をしたりする忙しさのなかで、
体育の教師は1980年(74歳?)まで続けられたそうです。
じつは、私も大野一雄先生の教え子の一人でした。
今日は、こんな思い出話を「さんぽみち」でみなさんにお話しながら、
亡き偉大な大野先生をを偲びたいと思います。
体育の時間は、いつも先生が大きな太鼓をたたいて、
そのリズムに合わせてダンスの基本を習いました。
ですから、毎日どこかのクラスが体育の授業を受けているので、
学校は いつも太鼓の音が響いていました。
中間試験や期末試験も、実技のダンスでした。
あるときの試験は 2~3人ずつ名簿順に分けられ、
創作ダンスをクラスメイトの前で発表するテストでした。
名前を呼ばれて前へ出ると、先生からそれぞれ違った「課題」が与えられ、
打ち合わせをする時間もなく「始めの合図」の大太鼓が鳴り出します。
そして、先生の太鼓の音が終わる時に「最後のポーズ」をするのです。
まさに即興の創作でした。
順番が来てびくびくしながら前に出ると、
私たちに与えられた「課題」は「煙とエントツ」でした。
考える間もなく、太鼓がドーン、ドーン…と鳴り出しました。
横を見ると、友達は平気な顔をして、まるで煙のように
モクモク、ユラユラ…と踊り始めています。
一瞬戸惑いながらも、私は考えました。
「…ということは、自分はエントツの役?」と思い、両手を高く上げました。
真っ直ぐに空を見上げて ドーンと立っていることにしました。
「煙サン」は気持ちよさそうに大きく走ったり、
高く飛び上がったりして踊っています。
でも「エントツ」の私は、ただ動かずに立っているしかありません。
両手が痛くなってきました。
ずーっと終わりまで、このまま? どうしよう?
「エントツ」だから仕方がないのかなぁ…。
でも、これはテストなのに…。
顔が赤くなるのが自分でもわかりました。
しばらく気持ちよさそうに踊っていた「煙サン」が、
私の近くにユラユラとやってきました。
そのとき、「エントツ」の私は決心して、
皆にわからないように、そっと、そっと、ほんの少しずつ、
足をずらして「煙サン」に近づいていきました。
ところが、見ているクラスメイト達はすぐ気がついて、
あちこちでクスクスと笑い始めたのです。
「あぁ、失敗した…」と思い、私はますます顔が赤くなるのを感じました。
「煙サン」もまた離れていってしまいました。
でも私は、ただ立っていることが耐えられなくなってきました。
「もう自由に踊ってしまおう…」と思いました。
そして、いきなり夢中で走りだしました。
自分が不動のエントツであることも忘れ、
体中を大きく動かして、気の向くままに踊ってしまったのです。
もちろん、見ていたクラスメイトはどっと声を立てて大笑い。
もうそこまで笑われれば、怖いものはありません。
そして「終わりのポーズ」も「煙サン」には悪かったけど、
太鼓に合わせてふざけて「おどけたポーズ」にしてしまいました。
大爆笑のテストになってしまいました…。
こんな私のテストの思い出話には、じつはまだ続きがあるのです。
クラス全員の創作ダンスのテストが終わると、
大野先生の感想と評価のお話があります。
もちろん私は後ろのほうで小さくなっていました。
先生は生徒達の前で、こう言われました。
「皆さんのダンスは、それぞれよかったと思います。
でも、その中に一つだけ、先生はじつに素晴しいと思ったのがありました。
それは『煙とエントツ』です。
『エントツ』は黙って立っているのが本当でしょうか?
『エントツ』は踊っている『煙』を見て、
一緒に踊りたいと思っているのではないでしょうか?
そっと踊ってみようかな…という気持ち、
そして、一緒に空を駆け回って踊ってしまいたい気持ち、
そのうちに、嬉しくて、楽しくて、ふざけあって
おもいきり踊ってしまう気持ち…。
『エントツ』はきっとそんな気持ちを持っていて、
それをじつに素晴らしく表現していましたね…」
みんな驚いたような顔をして、私を見ました。
慌てて私は「そんな…私は…じつは…」と先生に言い訳しようとすると、
先生は私の顔をじっと見て、こう続けました。
「エントツは黙って立っているのが我慢できなくなって、
一緒に踊れたらいいな、踊りたいな、という気持ちで踊ったのでしょう。
それが本当のエントツの気持ちなのです。
『エントツ』を常識的に考えないで、
表面に見えない内面を見たり考えたりすることが大切なのです…」
体育は苦手派でしたが、私にとってこの「エントツ事件」は
一生忘れられない出来事になりました。
私たちは大野先生から、あの太鼓の音と一緒に、
体育以外の貴重な教えをたくさん受けました。
数えきれないほどの教え子たちが大野先生の体育の時間に、
それぞれ、いろいろな思い出を持っていることでしょう。
そして今、きっと皆、それぞれ「最高に幸せな生徒だった」と
感謝していることでしょう。
『舞踏家 大野一雄先生』のお名前を新聞で見て、
このエピソードをどうしても「さんぽみち」で取り上げたくなりました。
こんな体育の授業は、現在もあるでしょうか?

[ 大野一雄先生の舞踏 ]
生涯現役で踊り続けた世界的な舞踏家として知られる大野一雄先生の
訃報を知ったのは、6月2日の朝刊を広げたときでした。
103歳のご高齢で亡くなった大野先生のご冥福を心からお祈りいたします。
北海道のご出身で1906年生まれのようですが、
先生は横浜から世界に今までにないモダンダンスを発信して、
多くの人々に感銘を与えた方だと信じています。
横浜でご活躍されたのは1930年代頃からでしょうか?
横浜のS女学校の教師になり、体育でダンスを教えることがきっかけで
舞踏の道へ入ることになったそうです。
召集を受け、華北・ニューギニアに従軍、終戦後の1年間捕虜になり、
死と生をみつめる境遇を体験されたからでしょうか、
先生の舞踏は、美しく見せるヨーロッパのバレーとは全く違い、
本質的な心の叫びを表しています。
怖いくらい、力強い舞踏でした。
世界各地で公演をしたり発表をしたりする忙しさのなかで、
体育の教師は1980年(74歳?)まで続けられたそうです。
じつは、私も大野一雄先生の教え子の一人でした。
今日は、こんな思い出話を「さんぽみち」でみなさんにお話しながら、
亡き偉大な大野先生をを偲びたいと思います。
体育の時間は、いつも先生が大きな太鼓をたたいて、
そのリズムに合わせてダンスの基本を習いました。
ですから、毎日どこかのクラスが体育の授業を受けているので、
学校は いつも太鼓の音が響いていました。
中間試験や期末試験も、実技のダンスでした。
あるときの試験は 2~3人ずつ名簿順に分けられ、
創作ダンスをクラスメイトの前で発表するテストでした。
名前を呼ばれて前へ出ると、先生からそれぞれ違った「課題」が与えられ、
打ち合わせをする時間もなく「始めの合図」の大太鼓が鳴り出します。
そして、先生の太鼓の音が終わる時に「最後のポーズ」をするのです。
まさに即興の創作でした。
順番が来てびくびくしながら前に出ると、
私たちに与えられた「課題」は「煙とエントツ」でした。
考える間もなく、太鼓がドーン、ドーン…と鳴り出しました。
横を見ると、友達は平気な顔をして、まるで煙のように
モクモク、ユラユラ…と踊り始めています。
一瞬戸惑いながらも、私は考えました。
「…ということは、自分はエントツの役?」と思い、両手を高く上げました。
真っ直ぐに空を見上げて ドーンと立っていることにしました。
「煙サン」は気持ちよさそうに大きく走ったり、
高く飛び上がったりして踊っています。
でも「エントツ」の私は、ただ動かずに立っているしかありません。
両手が痛くなってきました。
ずーっと終わりまで、このまま? どうしよう?
「エントツ」だから仕方がないのかなぁ…。
でも、これはテストなのに…。
顔が赤くなるのが自分でもわかりました。
しばらく気持ちよさそうに踊っていた「煙サン」が、
私の近くにユラユラとやってきました。
そのとき、「エントツ」の私は決心して、
皆にわからないように、そっと、そっと、ほんの少しずつ、
足をずらして「煙サン」に近づいていきました。
ところが、見ているクラスメイト達はすぐ気がついて、
あちこちでクスクスと笑い始めたのです。
「あぁ、失敗した…」と思い、私はますます顔が赤くなるのを感じました。
「煙サン」もまた離れていってしまいました。
でも私は、ただ立っていることが耐えられなくなってきました。
「もう自由に踊ってしまおう…」と思いました。
そして、いきなり夢中で走りだしました。
自分が不動のエントツであることも忘れ、
体中を大きく動かして、気の向くままに踊ってしまったのです。
もちろん、見ていたクラスメイトはどっと声を立てて大笑い。
もうそこまで笑われれば、怖いものはありません。
そして「終わりのポーズ」も「煙サン」には悪かったけど、
太鼓に合わせてふざけて「おどけたポーズ」にしてしまいました。
大爆笑のテストになってしまいました…。
こんな私のテストの思い出話には、じつはまだ続きがあるのです。
クラス全員の創作ダンスのテストが終わると、
大野先生の感想と評価のお話があります。
もちろん私は後ろのほうで小さくなっていました。
先生は生徒達の前で、こう言われました。
「皆さんのダンスは、それぞれよかったと思います。
でも、その中に一つだけ、先生はじつに素晴しいと思ったのがありました。
それは『煙とエントツ』です。
『エントツ』は黙って立っているのが本当でしょうか?
『エントツ』は踊っている『煙』を見て、
一緒に踊りたいと思っているのではないでしょうか?
そっと踊ってみようかな…という気持ち、
そして、一緒に空を駆け回って踊ってしまいたい気持ち、
そのうちに、嬉しくて、楽しくて、ふざけあって
おもいきり踊ってしまう気持ち…。
『エントツ』はきっとそんな気持ちを持っていて、
それをじつに素晴らしく表現していましたね…」
みんな驚いたような顔をして、私を見ました。
慌てて私は「そんな…私は…じつは…」と先生に言い訳しようとすると、
先生は私の顔をじっと見て、こう続けました。
「エントツは黙って立っているのが我慢できなくなって、
一緒に踊れたらいいな、踊りたいな、という気持ちで踊ったのでしょう。
それが本当のエントツの気持ちなのです。
『エントツ』を常識的に考えないで、
表面に見えない内面を見たり考えたりすることが大切なのです…」
体育は苦手派でしたが、私にとってこの「エントツ事件」は
一生忘れられない出来事になりました。
私たちは大野先生から、あの太鼓の音と一緒に、
体育以外の貴重な教えをたくさん受けました。
数えきれないほどの教え子たちが大野先生の体育の時間に、
それぞれ、いろいろな思い出を持っていることでしょう。
そして今、きっと皆、それぞれ「最高に幸せな生徒だった」と
感謝していることでしょう。
『舞踏家 大野一雄先生』のお名前を新聞で見て、
このエピソードをどうしても「さんぽみち」で取り上げたくなりました。
こんな体育の授業は、現在もあるでしょうか?

[ 大野一雄先生の舞踏 ]
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